マタイ​に​よる​福音​書 10:1-42

10  イエスは12せ,じゃあくてん使たいするけんあたえた+。それらをし,あらゆるびょう調ちょうなおすためである。  12使まえつぎとおりである+。まず,ペテロ+ばれるシモンとそのきょうだいアンデレ+,ゼベダイのヤコブとそのきょうだいヨハネ+  フィリポとバルトロマイ+,トマス+ちょうぜいにんマタイ+,アルパヨのヤコブと,タダイ,  ねっしんひとシモンと,ユダ・イスカリオテである。このユダはのちにイエスをうらった+  イエスはこの12にんつぎあたえてつかわした+。「こくひとびとところってはならず,サマリアじんまちはいってはなりません+  いつも,イスラエルこくみんまよひつじところきなさい+  って,『てんおうこくちかづいた』とでんどうしなさい+  びょうひとなお+んだひとかえらせ,おもびょうひとやし,じゃあくてん使しなさい。ただでけたのです。ただであたえなさい+  おびなかきんぎんどうのおかねれてはならず+ 10  たびのためのしょくもつぶくろえの*ふく,サンダル,つえもれてはなりません+はたらひとにはとうぜんしょくもつあたえられます+ 11  どんなまちむらはいっても,ふさわしいひとさがし,るまではそのひとところたいざいしなさい+ 12  いえはいときには,いえひとたちにあいさつをしなさい。 13  そのいえがふさわしいなら,あなたたちのねがへいがそこにとどまるようにしなさい+。しかし,ふさわしくないなら,そのへいぶんのもとにもどらせなさい。 14  どこでも,ひとがあなたたちをむかえず,はなしかないところでは,そのいえまちときに,あしつちはらいなさい+ 15  はっきりいますが,さばきのには,そのまちよりソドムとゴモラ+ほうしょばつかるいでしょう。 16  さあ,わたしはあなたたちをつかわします。あなたたちはオオカミのあいだにいるひつじのようになります+。それで,へびのようにようじんぶかく,しかもハトのようにじゅんしんなことをしめしなさい+ 17  ひとびとようじんしていなさい。あなたたちをほうほうていわた+かいどう+でむち+からです。 18  そして,あなたたちはわたしのためにそうとくおうまえれていかれます+。そのひとたちとこくひとびとしょうげんするためです+ 19  しかし,わたされるとき,なにをどうはなそうかとしんぱいしてはなりません。はなすべきことはそのときあたえられるからです+ 20  たんにあなたたちがはなすのではなく,てんちちせいなるちからがあなたたちによってはなすのです+ 21  さらに,きょうだいきょうだいを,ちちどもわたしてなせ,どもおやかい,いたらせます+ 22  そしてあなたたちは,わたしのためにすべてのひとからにくまれますが+わりまでしのんだひとすくわれます+ 23  あるまちはくがいされるときには,べつまちげなさい+。はっきりいますが,ひとるまでにあなたたちがイスラエルのまちまちまわくすことはけっしてありません。 24  せいせんせいよりうえではなく,れいしゅじんよりうえではありません+ 25  せいせんせいのように,れいしゅじんのようになるなら,それでじゅうぶんです+ひとびといえしゅじんをベエルゼブブとんだのであれば+いえひとたちにたいしてはなおさらでしょう。 26  ですから,ひとびとおそれてはなりません。おおわれているものはすべおおいをはずされ,みつにされているものはすべられるようになります+ 27  わたしやみなかげることを,ひかりなかいなさい。ささやかれた*ことを,おくじょうからつたえなさい+ 28  そして,からだころせてもいのちうばえないひとたちをおそれてはなりません+いのちからだもゲヘナでほろぼせるかたおそれなさい+ 29  スズメ2しょうがくこう1まいっていませんか。それでも,その1でさえ,てんちちらないうちにめんちることはありません+ 30  ところが,あなたたちはかみまですべかぞえられています+ 31  ですから,おそれることはありません。あなたたちはたくさんのスズメよりがあるのです+ 32  それで,ひとまえわたしみとめるひとすべてを+わたしも,てんにいるちちまえみとめます+ 33  しかし,ひとまえわたしみとめないひとを,わたしも,てんにいるちちまえみとめません+ 34  わたしじょうへいをもたらすためにたとかんがえてはなりません。へいではなく,つるぎをもたらすためにました+ 35  ぶんれつしょうじさせるためにたのです。息子むすこちちに,むすめははに,よめがしゅうとめにさからいます+ 36  ぶんいえひとたちがてきになるのです。 37  わたしよりちちおやははおやあいじょういだひとわたしとしてふさわしくありません。わたしより息子むすこむすめあいじょういだひとわたしとしてふさわしくありません+ 38  また,くるしみのくいれてわたしあとしたがわないひとわたしとしてふさわしくありません+ 39  ぶんいのちひとはそれをうしない,わたしのためにいのちうしなひとはそれをます+ 40  あなたたちをれるひとわたしをもれ,わたしれるひとわたしつかわしたかたをもれます+ 41  げんしゃげんしゃみとめてれるひとげんしゃむくいを+ただしいひとただしいひとみとめてれるひとただしいひとむくいをます。 42  はっきりいますが,これらたないひと1人ひとりであるとみとめてほんの1ぱいつめたいみずあたえるひとは,かならむくいをます+」。

脚注

直訳,「2枚の」。
直訳,「耳の中で(に)聞く」。

注釈

12使徒: または,「遣わされた12人」。ギリシャ語アポストロスは,「遣わす」という意味の動詞アポステッローに由来。(マタ 10:5。ルカ 11:49; 14:32)その基本的な意味をはっきり示しているのはヨハ 13:16のイエスの言葉で,そこでは「遣わされた人」と訳されている。

ペテロと呼ばれるシモン: 聖書中でペテロには5つの呼び名がある。(1)ギリシャ語で「シメオン」,ヘブライ語名シメオンをそのまま取り入れたもの。(2)ギリシャ語「シモン」(シメオンもシモンも「聞く」という意味のヘブライ語動詞に由来)。(3)「ペテロ」(「小岩」という意味のギリシャ語名で,聖書中でこう呼ばれているのは1人だけ)。(4)「ケファ」,ペテロに相当するセム語系の単語(ヨブ 30:6,エレ 4:29にあるヘブライ語ケーフィーム[「岩」の複数形]と関係があるかもしれない)。(5)「シモン・ペテロ」という組み合わせ。(使徒 15:14。ヨハ 1:42。マタ 16:16

徴税人: ローマ当局のために税を徴収するユダヤ人が多くいた。そのようなユダヤ人は,人々が反感を持つ外国勢力に協力していただけでなく,公式の税率以上のものを取り立てたので,嫌われていた。徴税人はたいてい仲間のユダヤ人から避けられ,罪人や娼婦と同格に扱われた。(マタ 11:19; 21:32

レビ: この弟子は並行記述のマタ 9:9でマタイと呼ばれている。マルコとルカはこの弟子について,徴税人だった時はレビという名前(ルカ 5:27,29),使徒の1人として述べる時はマタイという名前を使っている。(マル 3:18。ルカ 6:15。使徒 1:13)聖書は,レビがイエスの弟子になる前からマタイという名前を持っていたかを明らかにしていない。福音書筆者の中でマルコだけが,マタイ・レビがアルパヨの子であることを述べている。マル 3:18の注釈を参照。

レビ: この弟子は並行記述のマタ 9:9でマタイと呼ばれている。マルコとルカはこの弟子について,徴税人だった時はレビという名前(マル 2:14),使徒の1人として述べる時はマタイという名前を使っている。(マル 3:18。ルカ 6:15。使徒 1:13)聖書は,レビがイエスの弟子になる前からマタイという名前を持っていたかを明らかにしていない。マル 2:14の注釈を参照。

アルパヨの子ヤコブ: マル 15:40で「小ヤコブ」と呼ばれている弟子と同一人物だと思われる。アルパヨはクロパと同一人物と一般に考えられていて(ヨハ 19:25),そうすると「もう1人のマリア」の夫と言える。(マタ 27:56; 28:1。マル 15:40; 16:1。ルカ 24:10)ここに出ているアルパヨは,マル 2:14に出ているレビの父アルパヨとは別人と思われる。

バルトロマイ: 「トルマイの子」という意味。ヨハネがナタナエルと呼んでいる人のことと考えられている。(ヨハ 1:45,46)福音書を比較すると分かるように,ヨハネがナタナエルをフィリポと関連付けているのと同じく,マタイとルカはバルトロマイとフィリポを結び付けている。(マタ 10:3。ルカ 6:14

徴税人: この福音書を記したマタイは元徴税人で,多くの箇所で数や金額を述べている。(マタ 17:27; 26:15; 27:3)また,数をはっきり出している。イエスの系譜を14代ずつ3つに分けている。(マタ 1:1-17)そして,主の祈りで請願を7つ(マタ 6:9-13),マタ 13で例えを7つ,マタ 23:13-36で災いを7つ挙げている。「徴税人」についてはマタ 5:46の注釈を参照。

マタイ: レビとも呼ばれている。(マル 2:14,ルカ 5:27の注釈を参照。)

アルパヨの子ヤコブ: マル 3:18の注釈を参照。

タダイ: 使徒たちのリストで,ルカ 6:16使徒 1:13にタダイという名前はなく,代わりに「ヤコブの子ユダ」とあるので,タダイはこの使徒の別名と結論できる。ヨハネは「イスカリオテでないユダ」と呼んでいる。(ヨハ 14:22)時折タダイという名前が使われたのは,反逆者ユダ・イスカリオテと混同される可能性があったからかもしれない。

熱心な人: ギリシャ語,カナナイオス。使徒シモンと使徒シモン・ペテロを区別するための呼び名。(マル 3:18)語源はヘブライ語かアラム語で,「熱心党の人」,「熱心者」という意味だと考えられている。ルカは,ゼーローテースというギリシャ語を使って,このシモンを「熱心な人」と呼んでいる。これも,「熱心党の人」,「熱心者」という意味。(ルカ 6:15。使徒 1:13)シモンが以前に,ローマ人に敵対するユダヤ人の党派,熱心党に属していた可能性もあるが,熱意と熱心さのゆえにこの呼び名を与えられたのかもしれない。

イスカリオテ: 「ケリヨト出身の人」という意味かもしれない。ユダの父シモンもイスカリオテと呼ばれている。(ヨハ 6:71)この語から,シモンとユダはユダにある町ケリヨト・ヘツロンの出身だったと一般に理解されている。(ヨシ 15:25)そうであれば,ユダは12使徒の中で唯一ユダの人である。他の使徒はガリラヤ人だった。

天の王国は近づいた: 新しい世界政府に関するこの音信がイエスの伝道のテーマだった。(マタ 10:7。マル 1:15)バプテストのヨハネはイエスのバプテスマの6カ月ほど前に同様の音信を知らせ始めた。(マタ 3:1,2)とはいえ,イエスは,さらに深い意味で王国が「近づいた」と言えた。イエスが,選ばれた王としてそこにいたから。イエスの死後も弟子たちが王国は「近づいた」あるいは近いと知らせ続けたという記録はない。

伝道し: ギリシャ語は基本的に「使者として広く知らせる」という意味。知らせる方法を強調しており,一般には,一群の人たちへの説教ではなく多くの人々への宣伝を指す。

天の王国は近づいた: マタ 4:17の注釈を参照。

伝道し: 多くの人々に宣伝すること。マタ 3:1の注釈を参照。

重い皮膚病: 皮膚に重度の病変が生じる病気。今でいうハンセン病が含まれると思われるが,それに限定されてはいない。この病気と診断された人は治るまで社会から離れて生活した。(レビ 13:2,45,46用語集参照。

重い皮膚病の人: マタ 8:2の注釈用語集を参照。

その土地を去るまではそこに滞在しなさい: イエスは弟子たちに,ある町に着いたら,迎え入れてくれる家に滞在するべきで,「家から家へと移っていって」はならないと指示していた。(ルカ 10:1-7)弟子たちは,より快適で,もっと物を提供したりもてなしたりしてくれそうな家を探そうとしないことによって,それらのものが伝道という使命に比べれば二の次であることを示すことになる。

その人の所に滞在しなさい: マル 6:10の注釈を参照。

あいさつをしなさい: ユダヤ人の一般的なあいさつは「あなたに平和がありますように」。(裁 19:20。マタ 10:13。ルカ 10:5

足の土を振り払いなさい: この動作によって,弟子たちは神の裁きの結果に関して責任がないことを示す。同様の表現が,マル 6:11ルカ 9:5で使われている。マルコとルカは,「後はその人たちの責任であることを示すために」という表現を付け加えている。パウロとバルナバはピシデアのアンティオキアでこの指示通りにした。(使徒 13:51)パウロはコリントでも同様に自分の服に付いた土を振り払い,こう説明している。「あなた方がどうなるとしても,それはあなた方自身の責任です。私は潔白です」。(使徒 18:6)弟子たちはこの動作を見慣れていたと思われる。信心深いユダヤ人は異国人の土地を通ってくると,ユダヤ人の地域に入る前に,サンダルの土を汚れと見なして振り払っていた。しかしイエスは弟子たちにこの指示を与えた時,別の意味で述べていたと考えられる。

はっきり言いますが: または,「真実に言いますが」。ここのギリシャ語に含まれているアメーンという語は,ヘブライ語のアーメーンを翻字したもので,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味。イエスは発言や約束や預言の前置きとして頻繁にこの表現を使って,絶対的な真実性と信頼性を強調した。イエスのこの語の用い方は,宗教的文書で他に例がないとされている。ヨハネの福音書全体に見られる通り,イエスはこの語を2度重ねて(アメーン,アメーン)自分の言葉の信頼性をさらに強調することもあった。ヨハ 1:51の注釈を参照。

の方が処罰が軽いでしょう: 一種の誇張法で,イエスは文字通りに取られることを意図していなかったと思われる。(マタ 5:18,ルカ 16:17; 21:33などにある,イエスが用いた他の印象的な誇張表現と比較。)イエスは,「その日には[つまり裁きの日には]ソドムの方が処罰が軽いでしょう」(マタ 10:15; 11:22,24。ルカ 10:14)と言った時,ソドムの住民がその日にいると言っていたのではない。(ユダ 7と比較。)コラジン,ベツサイダ,カペルナウムなどの町の人々の多くがいかに無反応で責められるべきかを強調していたにすぎないと考えられる。(ルカ 10:13-15)古代ソドムに起きた事はよく知られるようになり,神の怒りと裁きに関連してしばしば言及されたということに注目できる。(申 29:23。イザ 1:9。哀 4:6

はっきり言いますが: マタ 5:18の注釈を参照。

の方が処罰が軽いでしょう: ルカ 10:12の注釈を参照。

何と: ここで「何と」と訳されているギリシャ語イドゥーは,続く記述に読者の注意を引き,物語の情景を思い描いたり細部に注目したりしやすくするためによく使われる。強調する時,あるいは新しい情報やあり得ないような出来事を伝える時にも使われる。ギリシャ語聖書でこの語がよく出てくるのはマタイとルカの福音書,「啓示」の書。ヘブライ語聖書で,対応する表現がよく使われている。

ハトのように: ハトは神聖な目的で用いられ,象徴的な意味もあった。犠牲として捧げられた。(マル 11:15。ヨハ 2:14-16)潔白や清浄の象徴だった。(マタ 10:16)ノアの放ったハトがオリーブの葉をくわえて箱船に戻ったことは,洪水の水が引いたこと(創 8:11),休息と平和の時が近いこと(創 5:29)を示していた。それで,イエスのバプテスマの時,エホバはハトを使って,イエスのメシアとしての役割に注意を引いていたと思われる。清浄で罪のない神の子が人類のために命を犠牲にして,王として治める休息と平和の時期の基礎を据えるのである。神の聖なる力つまり神の送り出す力がバプテスマを受けたイエスの上に下る様子は,ハトが止まり木に舞い降りる時のようだったのかもしれない。

さあ: ギリシャ語,イドゥー。マタ 2:9の注釈を参照。

蛇のように用心深く: ここで,用心深いとは,慎重で,分別があり,明敏という意味。動物学者によれば,たいていの蛇は警戒心が強く,攻撃するより逃げる方を好む。イエスは,弟子たちが伝道をする際に,反対者に対して用心深くあって,生じ得る危険を避けるよう注意を促していた。

しかもハトのように純真な: イエスの訓戒の2つの部分(用心深く,純真な)は補い合っている。(この節の蛇のように用心深くに関する注釈を参照。)「純真な」と訳されるギリシャ語(直訳,「混じり気のない」,つまり「汚れていない」,「純粋な」)はロマ 16:19(「悪いことについては無知で」)とフィリ 2:15(「非難されるところがない潔白な人」)にも出ている。ここマタ 10:16の「純真な」は,誠実な,正直な,欺きのない,動機が純粋な,という意味を含むと思われる。このような性質の象徴として,ハトがヘブライ語の比喩や詩で使われている。(ソロ 2:14; 5:2マタ 3:16の注釈と比較。)要点は,弟子たちはオオカミの間にいる羊のように迫害に直面する時,蛇とハトの特徴を共に示し,用心深く,明敏で,純粋な心を持ち,非難されるところがなく,純真であることが必要ということ。(ルカ 10:3

最高法廷: サンヘドリン全体。エルサレムにあり,大祭司および70人の長老や律法学者たちで成る司法機関。ユダヤ人はその裁定を最終的なものと見なした。用語集の「サンヘドリン」参照。

サンヘドリン: エルサレムにあった,ユダヤ人の高等法廷のこと。「サンヘドリン」と訳されるギリシャ語(シュネドリオン)は字義的には,「共に座る」という意味。会合や集会を指す一般的な言葉だったが,イスラエルでは宗教上の司法機関つまり法廷も指した。マタ 5:22の注釈用語集を参照。サンヘドリン広間があったと考えられる場所について,付録B12も参照。

地方法廷: ギリシャ語シュネドリオンはここでは複数形で「地方法廷」と訳されているが,ギリシャ語聖書でほとんどの場合,エルサレムにあるユダヤ人の高等法廷,サンヘドリンを指して使われている。(用語集の「サンヘドリン」とマタ 5:22; 26:59の注釈を参照。)とはいえ,会合や集会を指す一般的な言葉でもあった。ここでは,会堂に付属し,むち打ちや破門の罰を加える権限を持つ地方法廷を指す。(マタ 23:34。マル 13:9。ルカ 21:12。ヨハ 9:22; 12:42; 16:2

私の名のために: 聖書の中で「名」という語は,その名を持つ人自身,その評判,その人が表す全てのものを意味することがある。(マタ 6:9の注釈を参照。)イエスの場合,その名は父がイエスに与えた権威や立場も意味する。(マタ 28:18。フィリ 2:9,10。ヘブ 1:3,4)イエスがここで説明しているように,弟子たちが憎まれるのはイエスの名が表すもののため,つまり神が任命した統治者,王の中の王,命を得るために全ての人が従うべき方としての立場のためである。ヨハ 15:21の注釈を参照。

耐え忍んだ: または,「耐え忍ぶ」。「耐え忍ぶ」と訳されるギリシャ語動詞(ヒュポメノー)は字義的には,「下にとどまる」という意味。しばしば,「逃げずにとどまる」,「自分の立場を固守する」,「粘り強く行い続ける」,「しっかり立っている」という意味で使われる。(マタ 10:22。ロマ 12:12。ヘブ 10:32。ヤコ 5:11)この文脈では,反対や試練に遭ってもキリストの弟子としての歩みを続けることを指す。(マタ 24:9-12

私の名のために: マタ 24:9の注釈を参照。

耐え忍んだ: または,「耐え忍ぶ」。マタ 24:13の注釈を参照。

人の子: または,「人間の子」。原語で,この表現は福音書に約80回出ている。イエスは自分を指してこの表現を用いた。自分が女性から生まれた紛れもない人間であること,また人類を罪と死から救う力を持つ,アダムにちょうど対応する人間であることを強調したものと思われる。(ロマ 5:12,14,15)この同じ表現は,イエスがメシアすなわちキリストであることも明らかにした。(ダニ 7:13,14用語集参照。

人の子: マタ 8:20の注釈を参照。

まして: イエスはこの論法をよく使った。まず明白な事実や身近な真理を述べ,それに基づいてさらに説得力のある結論を引き出している。小さな事柄を基に大きな事柄を論じた。(マタ 10:25; 12:12。ルカ 11:13; 12:28

ベエルゼブブ: フィリスティア人がエクロンで崇拝していたバアルであるバアル・ゼブブの変化形かもしれない。これは「ハエの所有者(主)」という意味。(王二 1:3)ベエルゼブールやベエゼブールという変化形を使うギリシャ語写本もあり,これは「高大な住まいの所有者(主)」という意味かもしれず,聖書に出てこないヘブライ語ゼベル(糞)に掛けたしゃれであれば,「糞の所有者(主)」という意味。マタ 12:24から分かるように,これは邪悪な天使の支配者であるサタンを指す名称。

なおさら: マタ 7:11の注釈を参照。

光の中で: つまり,公然と,人々の前で。

屋上から伝えなさい: 「広く知らせる」という意味の慣用句。聖書時代,家の屋根は平らで,そこから何かを発表することができ,そこでの行動は広く知られた。(サ二 16:22

ゲヘナ: この語は,ヘブライ語ゲー ヒンノームに由来し,「ヒンノムの谷」という意味。その谷は古代エルサレムの南から南西にあった。(付録B12,「エルサレムとその周辺」の地図を参照。)イエスの時代には,ごみ焼却場になっていたので,「ゲヘナ」という語は完全な滅びの象徴として適切だった。用語集参照。

命: 復活による,人の将来の命のこと。ギリシャ語プシュケーとそれに対応するヘブライ語ネフェシュは基本的に,(1)人,(2)動物,(3)人や動物の命を指す。(創 1:20; 2:7。民 31:28。ペ一 3:20。それぞれの脚注。)ギリシャ語プシュケーが「人の命」を意味して使われている例は,マタ 6:25; 10:39; 16:25,26,マル 8:35-37,ルカ 12:20,ヨハ 10:11,15; 12:25; 13:37,38; 15:13,使徒 20:10。これらの聖句は,ここのイエスの言葉を正しく理解する助けになる。用語集の「プシュケー」参照。

命も体も……滅ぼせる方: 人の「命」(この文脈では命の見込みのこと)を滅ぼすことも,永遠の命を得られるよう復活させることもできるのは神だけ。一般的に「魂」と訳されるギリシャ語が,死にゆく滅び得るものとして言及されている1例。他の例は,マル 3:4,ルカ 17:33,ヨハ 12:25,使徒 3:23

ゲヘナ: 永遠の滅びを意味する。マタ 5:22の注釈用語集を参照。

スズメ: ギリシャ語ストルーティオンは,小さな鳥を意味する指小辞形だが,多くの場合スズメを指す。スズメは食用の鳥の中で最も安価だった。

小額の硬貨1枚: 直訳,「1アサリオン」。これは45分間の労働で得られた賃金。(付録B14参照。)この時,3回目のガリラヤ旅行中だったイエスは,1アサリオンでスズメが2羽買えると述べた。その約1年後のユダヤでの宣教期間中と思われるが,イエスはその2倍の額で5羽のスズメを入手できると述べた。(ルカ 12:6)これらの記述を比べると,スズメは5羽目がおまけで添えられるほど商人にとって価値の少ないものだったことが分かる。

あなたたちは髪の毛まで全て数えられています: 人間の髪の毛は平均10万本以上といわれている。エホバはそのような細かな点まで熟知しているので,キリストの後に従う一人一人に強い関心を持っておられることを確信できる。

苦しみの杭: または,「処刑用の杭」。ギリシャ語スタウロスが出てくる最初の箇所。古典ギリシャ語でおもに,真っすぐに立てられた杭または棒を指す。時に比喩的に使われ,イエスの後に従うゆえに経験する苦しみ,辱め,拷問,さらには死を表す。用語集参照。

受け入れて: 直訳,「取り上げて」,「つかんで」。ここでは,イエスの弟子になることに伴う責任と結果を進んで受け入れるという意味で比喩的に使われている。

命: ギリシャ語,プシュケー。用語集の「プシュケー」参照。

名によって: 「名」に当たるギリシャ語(オノマ)は名前以上のものも指す。この文脈では,父と子の権威と地位および聖なる力の役割を認めることを意味する。それを認めることによって神との新しい関係が築かれる。マタ 10:41の注釈と比較。

預言者と認めて: 直訳,「預言者の名によって」。この文脈で,「名によって」というギリシャ語の慣用句は預言者の立場や仕事を認めることを意味する。マタ 28:19の注釈と比較。

預言者の報い: 神からの真の預言者を受け入れてサポートする人は豊かに報われる。王一 17章のやもめの記述はその1例。

メディア

つえと食物袋
つえと食物袋

つえや棒は古代ヘブライ人には日常的なもので,さまざまな用途に使われた。例えば,体を支えるため(出 12:11。ゼカ 8:4。ヘブ 11:21),防御や保護のため(サ二 23:21),脱穀のため(イザ 28:27),オリーブの収穫のため(申 24:20。イザ 24:13)。食物袋はたいてい革製の袋で,旅人,羊飼い,農作業者などが肩から掛けた。食物,衣類,その他の物を入れた。イエスは使徒たちを伝道旅行に送り出す際,つえと食物袋についても指示を与えた。使徒たちは余分の物を手に入れようとして気を散らしたりすることなく,そのまま出掛けるべきだった。エホバが必要な物を与えてくださるから。イエスの指示をどう理解したらよいかについては,ルカ 9:310:4の注釈を参照。

オオカミ
オオカミ

イスラエルのオオカミは主に夜行性の捕食動物。(ハバ 1:8)オオカミはどう猛で食欲旺盛,大胆で貪欲な動物で,しばしば,食べたり引きずったりできる以上の羊を殺す。聖書で,動物とその特徴や習性はよく比喩的な意味で使われ,望ましい特性も望ましくない特性も表現される。例えば,ヤコブの臨終の際の預言で,ベニヤミン族は比喩的にオオカミ(Canis lupus)のような戦士として描かれている。(創 49:27)しかし,多くの場合,オオカミは凶暴,貪欲,悪質,ずる賢さといった望ましくない性質を表現するのに使われている。偽預言者(マタ 7:15),クリスチャン宣教に悪意をもって反対する人(マタ 10:16。ルカ 10:3),クリスチャン会衆を内部から脅かす偽教師(使徒 20:29,30)がオオカミに例えられている。羊飼いはオオカミの危険をよく知っていた。イエスは,「雇われ人は……オオカミが来るのを見ると,羊を見捨てて逃げ」ると述べた。「羊のことを気に掛けない」雇われ人とは異なり,イエスは「立派な羊飼い」で,「羊のために命を」なげうった。(ヨハ 10:11-13

むち打ちの道具
むち打ちの道具

むち打ち用の最も恐ろしい道具はフラゲッルムとして知られていた。それは柄に何本かの綱か革ひもが付いていた。ひもの部分にぎざぎざの骨片や金属片が重りとして付けられ,打たれた時の痛みが増すようにしてあった。

典型的な平屋根の家
典型的な平屋根の家

家の屋上は活動の場だった。父親がそこに家の人たちを集めてエホバについて話すこともあっただろう。取り入れの祭りの間,屋上には仮小屋が立てられた。(レビ 23:41,42。申 16:13-15)そこは亜麻を干すことなどにも使われた。(ヨシ 2:6)屋上で眠ることもあった。(サ一 9:25,26)屋上ですることは他の人たちによく見えただろう。(サ二 16:22)そこから何かの発表をすると,近所の人や通行人にすぐ聞こえただろう。

ヒンノムの谷(ゲヘナ)
ヒンノムの谷(ゲヘナ)

ギリシャ語でゲヘナと呼ばれるヒンノムの谷は,古代エルサレムの南から南西に位置する峡谷。イエスの時代,そこはごみ焼却場だったので,完全な滅びの適切な象徴だった。

スズメ
スズメ

スズメは食用の鳥の中で最も安価だった。スズメ2羽は45分働いた賃金で買えた。ギリシャ語はさまざまな小鳥を指せる語で,一般的なイエスズメ(Passer domesticus biblicus)やスペインスズメ(Passer hispaniolensis)も含む。それらは今でもイスラエルにたくさんいる。